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みんなの思い④(道草通信より)

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みんなの思い――みちくさ通信より④

№80 2017.1.28「少人数学級と中学校給食は教育の基本」
№79 2016.11.26「キーワードはやはり「生きづらさ」、そして達成感・自己肯定感」
№78 2016.9.10「もういいかな」
№77 2016.6.25「少 年 院」
№76 2016.4.18「2人で創る笑顔」
№75 2016.2.27「道草の会の14年間に思いを寄せて」
№74 2016.1.17「教員を辞して」
№73 2015.11.28「普通ではない」
№72 2015.9.26「至福の時 その2」
№71 2015.7.25「至福の時 その1」
№70 2015.4.25「今年もまた“「非行」を考える全国交流集会”に参加して」
№69 
№68 
№67 
№66 
№65 
№64 
№63 
№62 
№61 

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みちくさ通信№80
少人数学級と中学校給食は教育の基本
道草の会世話人 芝崎 文仁


教育の基本である、この二つの問題は一向に解決しないまま何十年もたってきました。30人以下学級の実現は政府の問題ですが、自治体にも深く関係する問題、教育への姿勢の問題です。給食の問題は、自治体の問題です。したがって、全国的には、実現している自治体が圧倒的に多いのであって、その意味では、横浜市はその実現をさぼっているということになります。
そこで、初めに中学校給食を問題にしたいと思います。川崎市は一部ですが、自校方式の中学校給食を実現させました。大きな前進です。全国的な中学校給食の前進のなかで、相模原市も川崎市も業者委託の給食を始め、横浜市もそれを真似て業者委託を始めました。利用生徒は、1.5%といわれています。ほとんど利用していないということです。それでは、中学校の生徒たちは、学校給食を願っていないでしょうか。
40年程前、中学校給食の実現めざして、横浜市教育委員会の担当部局と「学校給食をよくする会」が交渉を持ちました。当時、中学校給食の実現などの署名運動を展開していましたので、対市交渉はそのためのものでした。その時、担当者は得々と「愛情弁当」論を展開し、学校給食を否定したのでした。これは、飛鳥田市長が言い、それを受け売りして担当職員が言い続けていたことでした。私は、その職員に対して、少しからかい気味に「小学生には愛情はいらないんだ」と言いました。それ以後、担当者たちは、もう「愛情弁当」とは言えず、「手作り弁当」と言い換えて、今日まできています。「愛情弁当」と言おうと「手作り弁当」と言おうと、「学校給食法」に基づいて、給食を実現するのが、自治体の責任です。この法律は義務法ではないから、自治体で実施するかどうかを決定できるとして、横浜市は「中学校給食」をさぼってきて、実現させてこなかったといっても過言ではないでしょう。今までの市長が推進する立場に立たなかったとは言え、教育委員会という比較的独立性のある事務方が、学校給食法に基づいて、市長に説明・要請するという立場で、その実現に努力することができたはずです。それは、憲法二十六条の「権利としての教育」の実現ということです。「愛情弁当」とか「手作り弁当」とかのいいわけのことばを考えず、教育の重要な問題として、いかに予算がかかろうと、その実現のための努力が自治体の重要な責任であるわけです。
少人数学級の実現は、教育の本質に関わる問題です。これもまた、憲法条二十六条の問題です。戦後すぐの時代は、60人学級も当たり前の時代もありましたが、日本全体の貧困の時代であったわけで、それ以後、順次定数を減らしてきたにもかかわらず、40人でストップし、その後、多くの自治体の努力で小学校低学年の定員を少し減少しましたが、政府は少人数学級のための努力をしていません。財務省は、教育予算の削減をしようとするなど、現在の教育問題を放置しようとしているとして、その責任の重大性を指摘したいと思います。現在、子どもの減少により、学級数が減少しています。予算をそのままにしておけば自動的に教職員数は増加します。軍事費が5兆円を超える時代に、少人数学級のための教育費を抑え込もうということは、時代錯誤の政治と言えそうです。歴代政府の責任は大きいと言えます。こうしたなかで、定年退職した教職員が非常勤講師をしている中で、担任までしているという例が多くあると言われています。苦肉の策と認めても、正規の方法で少人数学級を実現させるべきでしょう。例の「菌」問題によるいじめについての対応にも問題があり、その市教育委員会は管理的ないろいろな施策を次々と出しているようですが、肝心の学級定数の減を実現しなければ、教職員の負担を増すだけでしょう。子どもとの対応という教育の本質の条件の改善を実現することが第一です。教職員が本来の教育活動に専念できるようにすることが教育行政の大切な任務であり、余計な負担を教職員にかぶせないことです。そのための第一の施策として、少人数学級、30人程度まで、早急に実現すべきで、私たちもその要求を強く訴え続けるべきだと思います。
憲法で保障している「権利としての教育」の実現という点では、「非行」問題も同様です。教育条件を改善し、教職員に余裕を持たせ、保護者や子どもとゆっくり話し合える環境を作ることです。憲法十三条の「個人」の尊重と二十六条の「権利としての教育」を大事にし、実現を目指すことでしょう。


みちくさ通信№79
キーワードはやはり「生きづらさ」、そして達成感・自己肯定感
道草の会世話人・保護司   篠崎 修


 先日、保護司研修会の一環として赤城少年院を視察する機会を得ました。ホームページには、『教育期間(収容期間)は平均で1年程度になります。東京ドームよりもひとまわり大きい広大な敷地を持ち・・・・・・恵まれた自然環境に設営されています。』とあります。その広い敷地には、4つの集団寮(各寮にホールと4人部屋×6室)、単独寮(単独室×24室)、ひまわり寮(単独室×3室)、学科教室、視聴覚教室、農園芸科教室、体育館、プール、グラウンド、農場、家庭寮などの建物が配置されている。現在の入院者数はおよそ40名、職員は50名余。ここ数年は収容数が大幅に減っているといいます。実際、集団寮の1棟は現在使用していない。また、小学生入院者用に作られた明るい雰囲気の寮(ひまわり寮)も見ることができた。が、今まで対象者は一人もいないとのことです。「生徒40人に教師1.5人という基準の現在の学校。もう少し教育に予算を使い、ひとりひとりの子どもに丁寧な対応ができれば、こういう施設に投じる予算は減らせるのではないのか」・・・などと、ついつい現職時代の教育条件と比較してしまいます。
  学校の教室そっくりに作られた教室(教科室)と視聴覚室。その壁や廊下には子どもたちの作品が展示されていました。「歴史新聞」や「実験レポート」などは、普通の中学校で見られるものとほとんど変わらない。が、違う「作品」もありました。自分が選んだ新聞記事の切り抜きに、マーカーで線を引く、それだけのこと。もう一つは、同じく新聞記事の中から自分が「気に入った」言葉を切り抜いて「言葉の貯金箱」(プラスチックのケース)に貯めておき、月に1回それを模造紙の指定されたスペースに貼り付ける、あるいはそのすきな言葉をいくつか組み合わせて短文を作る、など。
 案内してくれた職員の方は、「彼らにしては頑張っているんです。学習の習慣がない子たちが、ともかく活字を読み表現する。その頑張りを私たちは励まし、褒めます。家庭でも学校でも、ほとんど褒められたことなどない子たちに、このような活動を通して達成感を持たせたいのです。そのことが少しずつ自信と意欲を持つことにつながると思っています」。さらに続けて「そんな中から『高校に行きたい(行き直したい)』、『高卒認定の資格を取りたい』と言う子も出てきます。将来への目標と希望が芽生えるのでしょうね」。それは、私が関わっている困窮家庭を対象にした「中学生勉強会」の理念と全く同じであると感じ、一瞬胸が熱くなりました。これが例外的なことではなく、今のすべての学校に通う子どもたちに保障されれば、間違いなく今の教育状況は大きく変わるだろう・・・。そんな思いを強くしました。
  入院者のおよそ半分が何らかの発達障害を抱えている、とのことでした。私の地元には神奈川医療少年院があります。こちらもつい最近見学と併せて入院生と交流する機会がありました。こちらは「ほとんどすべての子が発達障害と診断されている。そして保護者や教師などからの不適切な対応、そして例外なく受けてきた《いじめ》などが積み重なって犯罪行為へと至ってしまう・・・」との職員の説明に、暗澹たる思いを抱かざるを得ませんでした。
 「『非行』の会」では、かなり前から犯罪者と発達障害との関係について目を向けてきたことを思い起こします。「いじめ」も「非行」も、その根っこには、すべての子どもたちが強いられている“生きづらさ”が厳然としてあります。この原稿を書いていたら「福島県から転校してきた子がいじめに遭っていた。『先生は誰も助けてくれなかった。死のうと思ったけれど、やめた』・・・」とのニュース。これが事実とすれば、学校は批判されても仕方がない。しかし学校の対応の悪さだけに目を奪われていては何の解決にもならない。ましてや「いじめを撲滅せよ」などと、“いじめ”の行為者を一方的に断罪・追及するようなことでは何の解決にもならないことは、うんざりするほどの事例が示しています。“いじめる子”も、いじめを受ける子も、“非行”の子も、その家族を含めて誰もが抱える生きづらさに目を向けていくことなしに、根本的な解決は難しい。やはりそこに行き着いてしまいます。


みちくさ通信№78
「もういいかな」
世話人 上田祐子


 今年、息子が2人、立て続けに結婚式をあげた。
 「ホッとしたでしょう?」「寂しくなるわね。」いろいろな声をかけられる。
どれも何だか違っていて、ある日ふとわいた思いが「もういいかな」だった。何だかヤバい感じだ。
子育てを生きがいとする良妻賢母型のお母さんとは程遠く、今も仕事に追われている私が、空の巣症候群になどなるはずがない。すでに子どもは家を出て別に暮らしていたので、家から消えてしまったような思いがあったわけでもない。結婚式だって子ども任せで、当日、のんきに参加したようなもので、大役を終えたという感覚もない。そもそも、子どもの結婚で娘が2人もできたと大喜びし、この夏、一緒に旅行や食事に行ったりしたではないか。
それなのに、「もういいかな」と感じている自分に戸惑っている。
3年前に父が死んだ。自宅で最期を迎えたいという希望を叶えることはできたが、私はその重圧に打ちのめされた。何かが整理できないまま時間がたち、ようやくわかってきたのは、ほとんどしゃべらない父と、私はもっと関わりたかったのだということ。私は、父の思いを受け取り損ねたままになってしまった。でも、私には幸せそうに見えなかった父が、どうやら幸せだったらしいと思えた時、私の中の何かがほどけた気がした。
子どもたちに、「かーちゃんは幸せだったよ」と伝えておきたい。
結婚式でもらった手紙の返事に、いっしょにいられて幸せだったこと。ダメ親だったけど、「ダメなところがあっていいんだよ」と子育ての中で教えてもらったこと。親も子どもに育ててもらえてありがとうと書いた。
非行っ子と格闘し続けた時間は、つらく苦しい時間だったけれど、間違いなく親と子で関わり続けた時間だったのだと思う。そしてその時使い果たしたエネルギーは思っている以上に莫大で、今、ふと人生のタガが外れてしまったような感覚になっているのかもしれない。
私は、命にかかわるかもしれないという思いを抱きながら仕事をしていた時代があった。その仕事を辞してから、「生きていたい」と実感するようになり、初めて死ぬのがこわいと思うようになった。今、残りの時間を意識する歳になり感じていたこわさが、「もういいかな」という思いとともにふと薄らいだような気もする。
もしかして「もういいかな」は、バトンを手渡していくという感覚なのかもしれない。
なんて書いているが、還暦なんてまだまだ若いと言われる時代だ。「もういいかな」がヘンな虚無感に向かってしまわないように、上手にバトンを手渡せるように、私自身のこれからを大切に紡ぎたいと思う。子どもたちに、「かーちゃんは幸せだよ」と伝え続けるためにも。


みちくさ通信№77
少 年 院
道草世話人 M


 今年もあめあがりの会(「非行」と向き合う親たちの会)代表の春野さんにお誘いを受けて、喜連川少年院へ5月に行ってきました。
 喜連川少年院では、毎年5月に文化祭が行われます。1日家族で過ごすことができ、昼食も一緒にお弁当を食べることができます。今年も晴天に恵まれ本当に良かったです。
 少年院は、面会は月1回程度約30分と時間制限があり、教官が同席していますので、ゆっくり家族だけで話す機会はあまりありません。私の時も、家族だけで会話ができるのは文化祭と運動会だけだったと記憶しています。喜連川少年院の文化祭は、小さいお子さんなど家族みんなでたくさんの方が参加しています。今年も約150人の参加と話されていました。
 喜連川少年院は、ここ5,6年、文化祭の11時から約1時間、あめあがりの会に講演を依頼してくれています。で、春野さんが「非行」と向き合う親たちの会の紹介、私が体験報告をしています。私の息子は、中学3年と18歳の時と2回少年院に入院しました。
 初めて喜連川少年院を訪れ、壇上に立った時は、その瞬間に自分の当時の苦しい気持ちが込み上げ、話すことができないほど泣いてしまいました。
 私は息子の少年院送致が決まった瞬間に、この子はもうおしまいだ、将来がない、と絶望しました。そして親として子育てが悪かった、と自分を責めました。まわりにも言えず、ずっと苦しかった。でも月1回面会には行っていました。
喜連川少年院は駅からだいぶ離れていて、車のない方は駅からタクシーで行くしかありません。会いに来ようと思ったときにそのことだけでも親にとっては大変なことです。初めて伺ったときは、氏家駅からお迎えの車に乗った時からこみ上げるものがありました。そして、体育館に行くときにグラウンドに整列している子どもたちの様子や号令の声などにも心がざわざわしてしまいました。
 今年も体育館に向かうとき、子どもたちの点呼の声に苦しくなり、壇上で話しながら涙が込み上げてしまいました。もう10年以上も前の体験を話しているのにです。
息子はもうすぐ30歳になります。私は息子が少年院に入ってからあめあがりの会の例会に参加するようになりました。そして、そこでつながっていた神奈川の方たちとかながわ「非行」と向き合う親たちの会(通称:道草の会)を立ち上げ、現在に至っています。
息子は20歳頃からようやく落ち着き、今ではすっかり普通の人(?)になりました。あれほど目を三角にしてすぐキレていた10代の頃の面影はどこにも感じられません。でもいつもどこか不安があり、私自身が当時の苦しい体験から解放されずに引きずっているのかなと体験報告をして感じました。親も子も苦しい思いをたくさんしたおかげで、たくさんの人とつながり、たくさんの喜びを日々感じることができるのだとも思います。
困ったときに一人で悩まないで、当事者の会などとつながることができるといいなと思っています。
どんな子も排除されることなく、失敗しながら成長していくのを、周りの大人たちが長い目で応援してくれる社会を築いていけるように自分のできることをこれからもしていきます。


みちくさ通信№76
2人で創る笑顔
道草の会世話人 樋口優子
 

2010年に書いた、保育園のお母さん達に向けて書いたメッセージです。
子育て中の日々の大変なことに出会った時、自分のことで手一杯で我が子の姿が見えなくなることがあります。まだまだ、手の内にいる幼児の時でさえ、そうですから、荒れて、親に向かってくる我が子に対して客観的に見るなんてことは、至難の業です。
でも、でも、そんな時、フット思い出せるものなら、以下のメッセージも何かの役にたつかしら、と思い今回は、この文章を原稿にしてみました。

園長からのメッセージ(2010年7月10日)
お母さん、  子どもの笑顔と1日何回出会えますか。
笑顔にはいろいろありますよね。
口を開けての大笑い・はじけるような笑い・にこっと一瞬の笑顔・にんまり笑顔・
はにかみ笑顔・照れ笑い
あなたは、どんな場面でどんな笑顔に会うのでしょう。
夜寝る時(寝かせる時)にフット一日を振り返ってみませんか。
たった一つで良いです。
「今日この子の笑顔を見たかな?」
それだけで、充分です。笑顔が子どもの心の一つのバロメーター。
「この子今日どんな様子だったかな?」
と振り返ると一日全部、思い出さなければなりません。深く考えてしまいます。
時には深く考えることも必要ですが、そんなに詰めて子どもを見ると、全体像を見ずに局部のみから見てしまい、心配や不安に駆られたりします。
親が心配や不安の思いで子どもを見ると、それが子どもに伝わり、子どもが緊張してしまいます。或いは、親に合わせてしまうことがあります。
 
もし今日見ていなかったら明日に廻しても良いのです。
明日意識して見れば良いのです。

もし、どうしても今すぐ見たかったら・・・・・・・・、くすぐっちゃえ!!
笑いを創り出してください。
くすぐりはお母さんが笑いながら仕掛けてくださいね。
子どもが笑ったらお母さんは喜んでもっと笑う。
子どもはもっともっと笑う。
2人で創る笑顔です。
親子で布団の上でコロコロと笑い転げる姿は最高!




みちくさ通信№75
道草の会の14年間に思いを寄せて
道草の会代表 樋口義博 


(1)ほっとできる例会
 ひとりで悩まないでと、今から14年前、「非行」や子どもの問題行動に悩む親たちが集まって、「かながわ『非行』と向き合う親たちの会」(道草の会)がつくられました。親だけでなく、教師、司法関係者も加わって、毎月第4土曜日に例会を開いてきました。時には少人数の集まりになることもありましたが、一人ふたりと新しい会員も加わって毎月欠かさずに行ってきたこの例会が、道草の会の価値ある原点であったと感じています。前号の「みちくさ通信」にも会員の中原さんが、「子どもの非行問題は親の心をじわじわと痛めつけます。こんな場合はこう対処、といったマニュアルがあるわけでもなくただただ道草の会で話を聞いてもらい、少しだけ気が軽くなります」と書いています。まさに、月に一度の例会が元気をつくる。そこに、価値ある道草の会の原点としての例会があるとあらためて感じざるをえません。
(2)子どもたちをとりまく深刻な状況
 今、子どもたちをとりまく状況は、ますます深刻になっています。さまざまな子どもたちの起こす暴力事件・荒れの問題・「非行」・いじめ問題等の問題行動が、毎日のようにマスコミでもとりあげられています。数日前の「川崎の事件の裁判」の報道には被害少年だけでなく、加害少年や親たちの思いに心を寄せるにつけ「いったい私たちに何ができるのか」――やりきれない複雑な思いでいっぱいです。
 今、子どもたちだけでなく、大人も含めて、人間らしく生きることが大変むずかしくなっています。人間としてまともに生きるのに大変な努力が必要になっている世の中です。「子どもの貧困」(「社会の貧困が子どもたちを襲っている」との捉え方が必要)という言葉まで生まれています。そして、一人ひとりの生き方と人権が大切にされなくなっています。平和もおびやかされています。日本国憲法前文に見られる「平和のうちに生存する権利」が奪われようとしています。いや、奪われつつあるといってもいいでしょう。安保法制(戦争法)の強行採決・民主主義破壊・憲法破壊などの動きは、その最たるものでしょう。「貧困と格差」「自殺大国」「いじめ社会」「地域社会の崩壊」など、嵐のように“社会のゆがみ”が押し寄せています。
(3)平和な環境のもとで人間らしく生きたいという願い
 今、『思春期』の真っただ中の日本の子どもたちは、自分の人生の未来に希望をもてず、大きな不安を感じています。私は、今の日本の子どもたちは、世界の中でもとび抜けて過酷な『思春期』を生きているといっても過言ではないような気がしてなりません。そのような中で、子どもたちの「心の荒れ」や「非行」の問題が深刻な問題を生み出してきていると言えるのではないでしょうか。それは、“人間らしく生きたい”という心の叫びとも言え、「平和な環境のもとで、人間らしく、自分らしく生きたい」という強い願いだとも思うのです。
ところで、人間の成長発達にとって『思春期』とはどのような時期なのでしょうか。
(4)あらためて『思春期』の捉え直しの重要性
  今、「非行」の問題を考えていくとき、私たちは、人間の成長発達にとって大変大切な『思春期』について、改めて正しく捉え直す必要に迫られているような気がしてなりません。それは、今の日本は、あまりにも『思春期』の成長発達が子どもたちに保障されていないと強く感じるからです。
『思春期』とは、これまでの自分をこわして新しくつくりかえていく、そのことを通して自立していく重要な時期だといわれています。これまで自明だと思っていたことにいちいち疑問をもち、自分自身にも疑問をもち、その不安やいらだちを他者(親や教師や友人など)に全部ぶつけて精神的な葛藤を重ねながら、間違いや失敗を重ね、ときには回り道もしながら、新しい人間関係をつくり、新しい自分をつくっていく。そういう点からすれば、子どもの成長の過程の中で精神的にもっとも不安定な時期であり、さらに誰もがくぐりぬけなければならない時期だといわれています。「青年期」の発見者で有名なルソーは、彼の著書「エミール」の中で『思春期』を「危機の時代」という言葉であらわし、「熱病にかかったライオンのようなものだ」という表現までしています。あらためて、『思春期』とは、子どもの成長過程の中のこのような時期だということをしっかりふまえて、「非行」の問題も捉え直していく必要があると思います。つまり、「非行」問題とは『思春期』の発達が今の子どもたちに保障されていない日本の社会の中で、その社会がもつさまざまな「負の要因」が複雑に絡み合って起こる社会現象だということです。
(5)希望を見いだせる若者たちの行動
 今、若者たちの中には二つの傾向が見られると思います。一つは、生きることに自信をなくし、不安な気持ちの中で、人間らしく生きることへのあきらめの傾向。もう一つは、自分らしく、人間らしく生きることに自覚的にチャレンジしようとしている傾向。この二つの傾向が、社会的にも、又、個人的にも絡み合いながら、せめぎ合っているということ。それも大切なことは、同じひとりの人間の中でそのせめぎ合いがあるということ。そして、そうしたせめぎ合いの中で、自分の生きる道を探り当て、前向きに人間的に生きることにこだわりをもちはじめた若者たちが増えてきていること。今、そこに大きな希望を見いだすことができます。安保法制(戦争法)や原発などの危険な動きに反対するシールズや高校生たちの行動などはその代表的な例だといえると思います。私は、「人間は人間らしく生きられる世の中(未来)につくりかえる力(変革主体)を本来もっている」ことを信じたい。
子どもは未来!



みちくさ通信№74
教員を辞して
道草の会会員 中原一郎
 

昨年10月末に再任用を止め退職し、37年と7ヶ月の間、貼り付いていた県立高校教諭の肩書きがなくなり、無職の年金生活者になりました。無収入になったのは痛いのですが、様々なプレッシャーも無くなり、気分はすがすがしくすら感じられます。新採用のころと比べて最近は教育活動の自由が失われたように思われます。授業者が自作のテスト問題を作り、採点し評価を行う。そんな当たり前のことができない職場でした。県からの通達だから複数の教授者が担当する科目は、共通問題でやって下さい、一定の学力水準を生徒に保証するには共通問題でなければなりません、それが校長の指示です。社会科は、担当者の教材の料理のしかたがそれぞれ違うから共通問題は困りますと訴えても受け入れてはもらえませんでした。一定の高い学力水準を満たし、生徒の興味関心を引き出し、かつ飽きさせない授業を提供することに自信が持てないため、退職することにしました。

社会科の学力とは
退職の直前に違憲の疑いがきわめて濃厚な安保法案が国会で強行採決されました。ちょっと前まで、集団的自衛権の行使は憲法9条のもとではありえないとしてきた内閣法制局の解釈を法制局長官を差し替えて一内閣の閣議決定で変更し、そして強行採決でした。
思えば、教育基本法の改悪、武器輸出禁止原則のなし崩し的廃止、特定機密保護法の強行採決、世界で一番厳しい審査基準をパスした原発は再稼働させる(と安倍首相は言うが、田中審査委員長は基準をクリアしても安全を保証するものではないと正直な発言)、アンダーコントロールと嘘を言ってオリンピックを東京に招致、福島原発の後始末さえできないのに原発を海外へセールスしてまわる……安倍政治の厚顔破廉恥な悪政の数々に国民の一人として暗澹とした気持で教壇にたってきました。
東大・京大をはじめ最高学府の法学部を出た与党の国家議員が安倍首相の嘘の数々に一言の異も唱えない、立憲政治の何たるかを知悉しているはずの最高学力水準の人たちが安倍政治のおかしさに何も言わずに支持するだけ……、阿部首相の意を受けた黒田日銀総裁、横畠内閣法制局長官、籾井NHK会長……おかしな人たちばかりです。NHKの良心的番組クローズアップ現代が改変され、国谷キャスターが降板させられるという記事が新聞にのりました。第一級の優秀なキャスターが排斥される、何ともおかしい出来事です。おかしいことをおかしいという、国家指導者の嘘を見抜く力こそが真の社会科の学力なのではないでしょうか。
憲法の最高法規性を規定した憲法98条の①項 この憲法は,国の最高法規であつて,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。
安倍首相は夏の参議院選挙で改憲勢力を3分の2占めいよいよ改憲へ動き出すようです。非立憲的独裁政治を国民が支持するようなことになればもうおしまいでしょう。

一昨年の夏に発覚した大学生の娘の非行。どうしてこんなことを…道を踏み外した娘もおかしいが、その非行を知った母親のもっとおかしい言動。「早く死んでほしい、あいつ大嫌い。」子どもの非行問題は親の心をじわじわと痛めつけます。こんな場合はこう対処する、といったマニュアルがあるわけでもなくただただ道草の会で話を聞いてもらい、少しだけ気が軽くなります。子どもの貧困は6人一人の高率だそうです。若い人の非正規労働者が増え続けているそうです。国会前に集まって「アベ政治を許さない」と気勢をあげられる人々の背後には、一日を生きるのに精一杯の庶民が、家族のことで頭が一杯の人々が大勢いるのだと思います。オリンピックではしゃいでいる人たちの対極に故郷を奪われた福島の人々がいます。原発事故がもう一度起これば日本は破滅すると想像できない日本の指導者。ペラペラとウソの達者な安倍首相、ウソをウソと国民の多くが見抜いています。


みちくさ通信№73
普通ではない
筑波大学大学院/日本学術振興会 髙橋 康史


私は,筑波大学大学院人文社会科学研究科に所属している髙橋康史(たかはし・こうし)と申します。非行少年や罪を犯した人のご家族が経験する生きづらさや,社会からの偏見について研究しています。ここでは,私がなぜこういった研究をするようになったのかを,話していきたいと思います。
私は,四国の田舎に生まれました。小学校から高校までほぼ同じ仲間と過ごすような地域で,ご近所の方とも密接に関わりをもっていました。そのような地域で暮らしていましたが,中学生になってすぐのころ,私の家族が精神疾患を患いました。どこに相談すればいいのかもわかりませんでしたし,そもそも身内に精神疾患を患っているものがいるということ自体を友人やご近所の方に言うことができませんでした。学校へ行きクラスメイトから家族の話が出た瞬間,私は家族のことがばれてしまうのが嫌だったので,自ら孤立していきました。なぜ話せなかったのかは未だにわかりませんが,このような経験から,家族内の問題を人に話や相談ができないのはなぜなのだろうと深く考えていくようになりました。
また,私は小学校から中学校にかけていじめを受けました。しぐさや振る舞いが男らしくなく,また女の子と居ることが多かったことがいじめの原因でした。そのころは,今思い返しても辛い日々でした。毎日毎日,学校をどう休むのかを考えていました。そんな時,私の力になってくれたのが「ヤンチャな子たち」です。「ヤンチャな子たち」は,私の女々しい振る舞いに対して特に触れることもなく,普通に接してくれました。また,放課後には毎日のように「遊びに行こう!」と誘ってくれました。「ヤンチャな子たち」と居る時,私は自然に立ち振る舞うことができました。この経験から,悪いことをする人たちが「弱いものに優しい」というイメージをもつようになりました。
こうした経験を経て,私は中学卒業したら地元から離れたいという思いが強く芽生えるようになりました。もう1度,私のことを全く知らない人たちがいるところで,1から生活がしたいと思うようになりました。高校は,四国内の違う地域の高校に,下宿をしながら通うことになりました。その結果,人生をリセットする気持ちで,高校生活を送ることができるようになり,地元の友人とも再び連絡を取り,地元に帰ったら会うようにもなりました。
このように,私は「人と違う」あるいは「普通でない」ということを強く意識させられる人生を歩んできました。小学校や中学校時代の友人は,今でも連絡を取っていますし,当時の私は考えすぎていたと思います。しかし,「人と違う」「普通ではない」と感じていた私にとって,そこにいること自体が非常に辛いものでした。
こういった理由から,非行少年や罪を犯した人のご家族が経験する生きづらさや,社会からの偏見について強い関心をもつようになりました。自己紹介で終わってしまいましたが,もし機会がございましたら,道草の会や「非行」と向き合う親たちの会に参加してからの感想などについてもお話しさせていただきたいと思います。

みちくさ通信№72
至福の時 その2
道草世話人 樋口 優子


(前号からの続き…)
高等部の父母がR子に茶道を教えてくれて、一生懸命やっていた。太鼓もやった。従軍慰安婦の話、社会的な問題の講演、いろんな人の話を聞く。学習は好んでやっていた。一方ネットで知り合った彼がいて、地方に旅行に行く、と言った。期間は不明。彼の名前は教えてくれない。かなり危険な臭いがした。しかし、R子は真剣で楽しみにしていた。ダメだしすると、家出をしそうな勢いだった。
認めるから、と言って危険の話もし、行き先を必ず連絡してくるように。逃げる勇気を持つこと、帰ってこれるだけの金を持たせ、隠して持っているように。と言って送り出した。
1ヶ月もしないうちに、連絡があり、その彼と一緒に東京で住む。と言った。地方の仕事は何だったのか、ハッキリ言わないが、ヤバイ仕事のようだった。荷物を送った。住所も名前も言わなかったが、荷物を送るから、と言って聞きだした。いざとなったら乗り込むつもりだった。しばらくして、やはり、薬関係の仕事らしく、売人のようなこともしたのではないかと察しがついた。
「彼のところを出る」と言ってきたので、のむぎの先輩で、1人暮らしをしているSに、置いてやってくれないか、と頼み置いてもらった。そのうちに、またそこを出ていった。数か月間、連絡も取れずにいたが、よほど何かあったら連絡してくるように、と言ってあったので、何の連絡もないのは大丈夫だろうと思っていた。
次に連絡があったのは、紹介した弁護士からだった。「警察に保護されている」のむぎに何とかならないか、というもの。キャバクラで働き、店長が逮捕され、その時にいたので、保護された。ということだった。のむぎには、飛び出た格好になっていたので、連絡できずに弁護士に連絡を取ったらしい。
のむぎでは、他の女子たちとの関係で、R子を受け入れられる状態ではなかった。受け入れてくれるフリースクールを探し、送っていった。着いたところはアパートの一室で、1人暮らし。寝具等買って食器類を買って、一晩、一緒に寝て、置いてきた。1人住まいに憧れもあって、良い顔で別れた。その時には、R子は素直に話すようになっていて、R子の触れられたくない話以外互いに話が弾んだ。受け入れてくれたフリースクールでは、同世代もいて何とか生活していた。
彼氏が出来、幸せ一杯の報告だったが、その彼氏はスクールの人ではなく、風俗関係の仕事を立ち上げるために、その準備をしている人、と聞いた。その店を出店したら、結婚すると言われて、喜んでいた。そんなこんなしているうちに、電話「生理が来ない」「子どもが出来た」「産みたい」「彼も産んで良いと言っている」
 急ぎ駈けつけて彼氏と会う。優しそうな青年ではある。R子へのまなざしも好感が持てる。私は「産むな」とは言わない。本当に彼が産んで、結婚する気があるかないか。R子自身も、どこまで本気なのか。本当に育てる気があるのか。結婚しなくても・・・。
彼は決して、産まないでくれとは言わない。産んでくれとは、もちろん言わない。相当慣れている。初めてではなさそう。危ない、危ない。こうなると、R子に、産まない、を選ばせるしかない。彼との会話を通して、彼の目の前で、諦め、産まないと言わせる。兎に角諦める理由をR子に持たせるように、彼の言葉を引きだす。
それには、彼のR子に対する気持ち(言っていることを)を否定してはならない。この時には、二人の恋愛を応援する。しかし、彼自身に彼の仕事の先に心配があるならば安定してからを待っても良いことを思わせる。そして、彼が親にR子を紹介していない、今は出店で親に借金をしているので、親には言えない。(そのことが彼の本心を物語る。)「本当に結婚を考えているのなら、産んで良いなら、そこは親に言ってほしい、R子もそこを心配してる」「どう?言えない?」それには返事がなかった。
R子には中絶は、悪いことではない。R子が決めて良いこと、を伝える。産みたい気持ちは分かる。特に家族をつくりたいのは良くわかる。でも、今は 私は、産まない方が良い。と考えるけどR子がどうしてもというのなら、自分の責任で産んでも良いと思う。但し、今の状況で産めるには、周りの応援があるかどうか。がカギ。私は応援するとは言えない。ここまでくると、R子は少し考える、と言い、「産みたいけど、条件が無いよね。諦める」と言って産まないことを選んだ。
費用を彼が持つことを約束した。逃がさないように少々脅しをかけた。金はすぐ用意する。私は貸さない。立て替えない。そこは男の責任だ。彼は素直に聞いた。直ぐが良い。翌日中絶した。R子もそうなるだろうことは覚悟していたのだと思う。
その頃からR子は私を急激に全面的に信頼するようになった。避妊の話、セックスの話、恋愛の話、素直に聞いた。それから、1ヶ月も立たないうちに、彼と別れてのむぎに帰ってきた。帰ってすぐに、出会い系で知り合った違う彼が出来、新しい彼と一緒に住むようになり、その彼とは別れて冒頭の話(家を借りるのに保証人になってほしい。)に繋がる。
「風俗を止められた。」と言ったのは、風俗をやっている、と白状した時、私は「早く風俗を卒業するようになると良いね」と言ってあったから。「やっと卒業できたね」と黒髪のR子をしっかりとハグした。「偉いよ、良くここまできたね」目頭が熱くなった。至福の気分だった。

仕事を転々とする彼とは、いつまで続くかは不明。でも、幸せを一杯味わって、自分づくりをしていけばよいと思う。7年間で、得た経験は必ず実になっていると確信する。R子はここで成長の階段を大きく上った。自分の「力」で上った。すごい!! これからが楽しみ。


みちくさ通信№71
至福の時 その1
道草世話人 樋口優子

 
R子からの電話
「お願いがあるの。家を借りるのに保証人になってほしい。風俗の仕事は、辞めたよ。」
彼とは今春、彼の卒業と共に別れた。新しい彼と一緒に住む。
「それと、区役所に一緒に行って欲しい。住民票を移し、年金も払いたい」 
 
今年21才になったR子は今から7年前、彼女が中学3年生の時、 児童相談所から弁護士の紹介で、のむぎにきた。試験観察がついたR子は大人に対する不信感が強く、裁判所からは、心理テストでは最悪だと言われた。お父さんとおばさんに育てられたが中2でお父さんが亡くなってから、荒れだし、児童相談所を脱走したりして、おばさんから、見放され、法的にも養育放棄された状態。

のむぎに来た時のR子は、挨拶はしない、返事をしない、大人、特に私を無視し、一緒に食べない、ことわらない、ごめんなさいは言わない、要求も出さない。好き勝手にあるものを作る、やめて、というとプイといなくなる。そこまでの子は今までにはなかったので、私も「応えて・返事してね・要る?要らない?」と聞くと更に声が小さくなる。「私は耳が少し遠いから、大きい声で言って」聞き直すともう言わない。問いかけは、簡潔な返事になるように工夫するものの上手くいかない。何とも取りつくしまがない。距離を置くことにしていた。
新しい靴・バッグ・服を良く持ってくる、そんなに金があるはずもない、ネットで彼氏を作るので、もらっているのだと思っていた。のむぎの子たちは万引きだ、という。それを正す信頼関係が私とも、仲間のうちにもまだ出来ていない間柄では、確たる証拠がなければ問い詰めることになるので聞かなかった。
私とは、私からすると、様子見だが、後で聞くとR子はケンカしていると言っていた。そういえば、変な屁理屈を言うので、通らないことは通らない、と、私も譲らないので、言い合いになった。それをケンカと言ったのだと思う、彼女流の、つまりケンカ状態が続く。私を嫌な奴、と思っていたと思うが、正直私も可愛くない!と思うことがしばしば。腹が立った。やはり、ケンカだったかもしれない(笑)
それでも、1ヶ月後の裁判所の心理テストでは、すこぶる良い方向になっている、との結果が出た。言い合いが功をなしたのか?言い合った後は私もスカッとしたこともあった。私との関係は、表面は相変わらずのケンカ状態?だったが、児・相とは違って行動を制限されることはなく、のむぎの友達とは悪口を陰で言い合ったりしていたようだが、1人ではない。周りに友達がいた。大人の温かい目があった。彼女なりの自由があって、帰る家があった。自分は何も言わなくても、「お帰り」の声の後に「ただいまは?」と言われながら会話が?あった。すれ違いざまに「返事は?」の声を無視しながらも、周りに人がいた。言われて、やられて思いこむ風ではなかった。私との関係はお互い様と、みた。
のむぎの大人たちに暖かく見ていてもらった。スキーに行った。フィールドワーク、夏まつり、友だちが一緒はイヤだというので、R子を連れて行かなかったこともあった。授業も出た。馴染むには時間が必要だった。
彼氏が出来、着飾って出かけていた。次々とよく出来るもんだと感心する。私は内心エイズを心配しながら、避妊の話なんぞまだ出来ない。
回りとは、適当に表面的に付き合って?いたようだ。地元の友達(一緒に児相にいた)との付き合いは自由で、泊まりに来たいと言ったこともあった。しかし、先方のお母さんの反対で、実現しなかった。私達が会うことでお母さんに認めてもらえるかと思ったが、お母さんには、近づけたくないと断わられた。
食器を部屋に持ちこんで、無くなっていたのもあった。なぜか不明、メッセージを発していたのかもしれない。とにかく様子見だった。                (次号へ続く)


みちくさ通信№70
今年もまた“「非行」を考える全国交流集会”に参加して          
道草世話人 ケイト


今年の全体集会の講演は、元保護観察官で日本福祉大学木村隆夫教授による「傷ついた人の心をいやせるのは、人の心しかない」でした。この時期、ちょうど川崎で中学生が殺害され、仲間の少年が事情聴取されている最中で、連日マスコミ報道がさがれている時期と重なったので、木村先生は、まずその事件のことから話されました。あくまで、事件の経過が明らかになっていないことを前提に、公式の情報ではないが、新聞・週刊誌の記事で、被害者は数か月前に田舎から引っ越してきた母子家庭で、母親は生活の為に働くことに追われて、子どものことが気になりつつも、手を掛ける余裕がなかった。加害者とされるAは、外国人の母親と暴力的な躾をしがちな父親に虐待を受けてきた可能性があり、Aは暴力の加害者でもあり、被害者の可能性もある。再発防止のためには、亡くなられた少年だけでなく、A、両者が抱える家庭や環境に眼を向け、被害者も加害者も、育ってきた中で社会から排除・差別・人格の全否定などがなかったか、学校・地域・行政が本人も含めた家庭への援助の役割が機能していたか、など、丁寧な実態解明が必要であること。警察の「少年サポートセンター」への引き継ぎや、学校ソーシャルワーカーの活用によっては、保護者の生活困難に対する改善が可能だったかも知れない。加害者個人や家庭・学校の問題として矮小化しない視点の必要を話されました。そして、興味深かったのは、「非行」の過程で仲間内の集団暴力は数多く発生しているにも関わらず、今回のように最悪のケースとならないのは①やりすぎを防止する加害者の自制力、②被害者の回避努力、③学校・家庭・地域・行政などの救済機能、の3つ機能が働いていると考えられ、すべてが悲惨な結果を招いているわけではない。どれか一つでも働いていれば、悲惨な事態は免れたかもしれない、ということでした。
こういう事件が起きると、マスコミでは「加害者憎し」と取り扱われがちなだけに、私の頭を冷静に整理させて頂くことが出来ました。現象面だけ見て少年法の厳罰化が取り沙汰されますが、それで事態が良くなるとは思えず、むしろマイナス方向に行くように思え、不安を感じます。
 
講演後は、劇団あめあがりによる創作劇「夜空の虹」が上演されました。テーブルとイスが数個ずつと至ってシンプルなセットが、場面によって、家庭、学校、親たちの会などに早変わりして、見事に父・母・妹と本人がそれぞれの立場で苦悩する場を表現しています。子どもの「荒れ」に混乱し悩む親が、今まで持っていた価値観を手放し、同じ悩みを持つ親たちと繋がることで、子どもの苦しみや揺れに気づき、家族が再生していく物語です。昨年初めて見た時も、素人(失礼!!)なのにとても上手でびっくりしましたが、今回はもっと上手くなっていて、更にびっくり。自分たちの経験を、このような形で知って頂けるとしたら、嬉しいです。